〜補足〜
少し論が大雑把だったと思うので、そう思う背景をもう少し書いてみる。
まず自民党は秘密保護法制定について批判する報道に対して、党所属の全国の議員に“反論のための指南書”を作成して配っていたそうだ。
また石破幹事長は秘密保護法反対の非暴力のデモに対しても「テロと同じ」と発言。もう少しマシな人かと思っていたが同じ穴のムジナか。
ほかにも秘密保護法が数の力で通ったので、かつて悪法として廃案になった「共謀罪」を成立させよう、という動きがでているそうだ.。
国民の人権を案じる者にとって、安倍政権の権力批判を封じる手立てを堅固なものに拡大しつつある、という現状認識は重要である。
ひとたび権力批判ができない構造が出来上がってしまうと、権力は簡単に暴走する。
それは火事と同じで、ボヤのうちはバケツの水で消火できるが、燃え上がってしまば、個人で太刀打ちできるものではなくなる。
そういう認識を今の人々はどれくらい持っているのだろうか。
戦争を知らない世代、というのは戦争の悲惨さを知らないだけでなく、戦争へ転げ落ちていく過程になにがどう変質していったのかを知らない、という
ことを強く感じる。このままでは、司馬遼太郎の本すら発禁本になりかねない。歴史を直視しない民族に将来の希望はないと思う。
『日本人は事実を事実として残すという冷厳な感覚に欠けているのだろうか。
時世時節の価値観が事実に対する万能の判定者になり、都合の悪い事実を消す。
日露戦争後の陸軍戦史もそうであった。
太平洋戦争後も、逆ながら同じことが行われ、今も行われている。
事実は、文献の面で物の面でも、全て存在したというものは残すべきである。
嫌な事実もそれが事実であるがために残しておくというヨーロッパの国々でみられる習慣に対し、
我々は多少の敬意を払ってもいいと思う。』
司馬遼太郎 「坂の上の雲を書き終えて」(昭和47年)